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(011)『フォレスト・ガンプ』

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映画の『フォレスト・ガンプ』はアカデミー賞の呼び声が高いが、日本での封切り前に原作の翻訳も出た。原作では、主人公が火星をめざし、ニューギニアで食人種と暮らし、プロレス、チェスの大試合、映画出演などと賑やかだが、映画はヴェトナム以外はほぼ一九五〇年代から八〇年代のアメリカに限定している。ヴェトナムでの戦友バッバは、原作では白人だが、映画では黒人に変えられている。原作では黒人の登場比率は極めて低いので、PCでないわけだ。この点、『ライジング・サン』やミュージカル『ミス・サイゴン』などの黒人に対するPCと同列である。食人種の削除もPCの部類に入る。

仕上がりは圧倒的に映画がずば抜けている。公開試写の数百名の間からは、映画終了と同時に拍手が沸き起こった。

さて本題だが、私は原作を読むうちに、スコット・フィッツジェラルドの長編『夜はやさし』(1934)を連想した。ヒロインのニコールは精神分裂症で、精神分析医の主人公のディックは「癒す人」として彼女と結婚する。ニコールは、一九二〇年代に始まる保革の分裂と大不況に苦しむアメリカそのものを体現しているので、ディックは「アメリカの癒し人」という重大任務を課せられたわけだ。ところがニコールは一向に治癒しない。逆に若きファシストとの情事が始まると急速に治癒していく。これはヒトラーが「まやかしの癒し人」として、途方もない不況に苦しむドイツを救ったことと呼応する。むろんドイツは、そのために破滅の淵に追いやられるのだが。

しかし『フォレスト・ガンプ』では、一九六〇年代のカウンターカルチャーにどっぷり浸って深刻に傷ついたジェニーを、魯鈍のガンプは見事に「癒す」のである。もっとも映画では、「癒された」後ジェニーは、ガンプとの間にできた男の子を彼の手に残してエイズで死んでいくのだが。原作だと、ジェニーはガンプとの子を連れたまま他の男と結婚、カウンターカルチャーの残滓を払拭した静かな人生を送る。

二十世紀最大の発明の一つ、精神分析に治癒力がなく、太古からいる魯鈍のほうにそれがある──ディックとガンプを比べて、この皮肉が印象的だった。原作ではこの魯鈍が「イディオサヴァン」、つまり「賢こ馬鹿」と説明されている。ガンプは普通の学才はないが、脚力、ハモニカ吹奏、高等数学解読、チェスなどではずば抜けた才能を発揮する。

魯鈍の治癒力の傍証は、IQ世界一の東欧系ユダヤ人の間にシュレミールという「間抜け」を持て囃す習慣があることだ。「土一升金一升」の大阪には、藤山寛美らが演じた「阿呆」を愛する習慣があるのと酷似している。彼らは己の病的な抜け目なさから自らを「癒す」ために、正反対の存在にすがるのである。ソウル・ベロー、I・B・シンガーらアメリカのユダヤ系作家の作品にはシュレミールが溢れている。

『フォレスト・ガンプ』で作者のウィンストン・グルームは、一九五〇年代以降眦を決して生きながら悪化の一途を辿ったアメリカに、それを笑いのめして「治癒」させる媒体として、ガンプを送り込んだ。「媒体」だから、ガンプは完全なピカレスク小説の主人公として、ほとんどブラウン運動を展開する分子のように支離滅裂な人生行程を抜群の脚力で駆け抜けていく。「ピカロ」は人間扱いされず、その間隙を利用して動物にまで身をやつして生き延びる。だからガンプはオランウータンのスーとも話が通じるのだ。人間以下(サブヒューマン)(ルビ)だから、ピカロの登場するところ、抱腹絶倒の喜劇が展開する。喜劇は「生の芸術」だが、悲劇は「死の芸術」である。悲劇は人間の「尊厳」を描くが、元来喜劇的存在である人間が「尊厳」を入手できるのは、死ぬときだけだからだ。ジェニーは悲劇の権化だから、ガンプがいなければ癒されずに死んだはずだった。

さて、ここまではいいのだが、困るのは、昨秋の中間選挙で大躍進した共和党右派やキリスト教右翼が、カウンターカルチャーに引き裂かれたジェニーが象徴するアメリカを「癒した」ガンプを、保守主義のお手本を扱いしていることだ。ニコールが一九二〇年代、、ジェニーが六〇年代、それぞれの分裂したアメリカを象徴しているのは間違いないのだが、公民権運動に刺激されて起こった白人中流出の若者たちの意識革命カウンターカルチャーは、人種差別、性差別、ゲイ差別、障害者差別などの壁を粉砕しただけでなく、「高度管理社会」という現代最大の敵と闘った唯一の運動だった。

保守派の少ないハリウッドですら、チャールトン・ヘストンやトム・セレックら保守派映画人が、中間選挙の一か月前に二日間のセミナーを開き、「『フォレスト・ガンプ』こそ、カウンターカルチャーで変質する以前のアメリカ映画のよさを復活させた作品」と持て囃した。「ガンプの誠実さ、健全な道徳観(彼もマリワナに狂うのだが)、ジェニーへの一途な思い、勇気、自助精神などの保守的価値観の前に、カウンターカルチャーを代表するジェニーが膝を屈するのが最高だ」というのだ。

そんなのではなくて、この作品の醍醐味は、自国の現実の歴史を一場の「ほら話(トール・テイル)(ルビ)」に還元する徹底ぶりにある。保守派の価値観自体が、主人公の名がフォレストというKKKを創立した元南軍の将軍に因んでつけられた事実によって、あっさり笑いのめされているのだ。小説、それ以上に映画が、痛烈な感動を呼んだのは、「阿呆」こそ小賢しき者どもが蔓延させた歴史の病を「癒す」という単純な事実を知らされた、小賢しき者どもの驚きだったのである。

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